「はだしのゲン」ロシア語版の母!〜浅妻南海江さん独占インタビューパート1〜
原作者である、中沢さんが書いたこんな一節を読んだことがあります。「この18年の間に 「ゲン」は たくさんの人に会い、英語や、フランス語、ドイツ語、スウェーデン語、エスペラント語などを覚えました。ひょっとしたら、中国語や、ロシア語、スペイン語を覚えなくてはならないかもしれません。」
…そう!ゲンはロシア語を覚えたのです!!
それは、プロジェクト・ゲンロシア班のみなさんの並々成らない努力によって、この偉業を成し遂げたのです!このプロジェクトの代表者であり、発起人である、浅妻さんにインタビューを試みてみました。「ゲン」が言葉を覚えるとはいったい…??
▼そもそもの浅妻さんと「はだしのゲン」の出会いを教えて下さい。
生協のお知らせか何かで「ゲン」を知りまして、
これはぜひ子供達に読ませたいと思い、 早速購入しました。買った日のことはよく覚えています。
我が家では他にマンガはあまりなかったので子供達は夢中で読んでおりました。
それにいつのまにか私も主人も・・・一時は子供達の間でヒロシマ弁がはやりました。ちなみに子供は男5人、女2人です。
▼ロシア語版を制作しようと決意したきっかけをおしえてください。
人と人や、人と物との出会いは不思議な、そして面白いものです。1994年2月、私の所属する金沢ロシア語センターに『この子達の夏』という朗読劇の台本の翻訳依頼がありました。金沢公演10周年記念にウクライナ・チェルノブイリの被災者、女教師ニーナ・ミハイロヴナを金沢に招待して『この子達の夏』を見ていただくことを企画した実行委員会からのものでした。翻訳には日本人、ロシア人数人が関わっていました。台本の中に原爆の落ちてくる場面があります。私はすぐ我が家の子供達の人気マンガ『はだしのゲン』のことを思い出しました。中心メンバーである館農ユーリヤさんに原爆がどのように投下されたかお見せしようと『ゲン』を持参したところ、彼女は「全部読みたい」とのこと、私はうれしくて急いでお持ちしたことをよく覚えています。ソ連崩壊後とはいえウクライナ・チェルノブイリ、カザフスタン・セミパラチンスク等の核の問題はロシア出身の彼女にとってもひとごとではなかったのでしょう。またイレーナさんの「泣きながらワープロを打った。」「知らなかった。」という言葉は私の胸を突きさしました。
「世界中の人がヒロシマ、ナガサキ、ゲンバクなどの言葉を知り、核兵器は恐ろしいもの、という認識があっても、実相は何も知られていないのではないだろうか。データ−や記録では人の心はわからない。原爆地獄で水を求め、苦しみ抜いて死んでいった人々、一人一人が名前を持ち、その人なりの歴史を持ち、肉親や友人を持ち、あるときは夢や希望に胸を躍らせ、あるときは人生の喜びや悲しみを体験しながら日々の営みを繰り返していた人達の業火に焼かれて死んでいった無念…肉親を失い、大火傷を負い、ケロイドを隠し、゛ピカ゛を受けた故に差別され、放射能の恐怖におびえながら生き続けている人達の苦しみ、嘆きがどれほど理解されているのだろうか。核兵器最初の被爆国日本はまた最後の被爆国でなくてはならない。この悲劇は二度と繰り返してはならない。そのためにはまず伝えること。あらゆる手段を使って核兵器の悲惨さを伝えねばならない。それをできるのは日本人だけだ。」私は正に『ゲン』こそが平和の使者にふさわしいと思いました。
ユーリャさんがこの本に興味を示してくださったことは私にとって『ゲン』のロシア語訳をより現実的なものとしました。私の語学力ではロシア人の協力なしでは到底やれるような簡単なことではありません。「一緒に翻訳をしていただけませんか。」とお願いしたところ、快諾していただきました。「反核のためにがんばろう。」二人で盛り上がったことが昨日のことのようです。丁度その頃モスクワに留学していた田邉美奈子さんという方が戦後50周年を機に『ゲン』の出版を準備していらっしゃったことなどまったく知らずに…
そのことを知ったときにはユーリヤさんも私もがっかりすると同時に大変驚きました。
しかし作者の中沢啓治さんのご紹介で私達も1995年に田邉さんの<プロジェクト・ゲン>に参加、1.2.3巻をモスクワで出版しましたが1998年のロシアの経済恐慌を境に私達の活動は休眠状態に入りました。
しかしどうしても10巻までの出版をあきらめきれず1999年夏から本格的に活動を始め、4巻からはロシア人留学生や現在クラスノヤルスクに在住の友人、金倉孝子さんの協力を得て、自らパソコンで版下までを作って経費を切り詰め何とか10巻まで辿りつきました。紆余曲折ありましたがこうしてロシア語版『はだしのゲン』を世に出した今、『この子達』がその思いを『ゲン』に託したのだろう、と思っています。『ゲン』と『この子達』は手を携えて平和の使者となり、日本人の体験したこの悲劇を世界の人々に伝え続けてくれることでしょう。
▼看板の訳や、限られたせりふの「ふきだし」の中で、相当量の翻訳作業があったと思います、いちばん苦労した点や、これは困った!という箇所はどこだったでしょうか(「擬音などがロシア語は少ないので、苦労した。」とも聞きましたが…)
ロシア語では言葉が随分長くなる場合があります。 どんな表現をしたらみじかくなるか、どの言葉をカットするかということも考えました。ただ、絵との関係もありますのでむやみに大きくすることはできませんし、あまり絵を触ることは慎みました。どうしても無理なときには吹き出しを消して大きくしたりしました。
基本的には文字を小さくして何とか入るようにしました。看板等の書きこみは作業が面倒くさく疲れることもありましたが、中沢先生はストーリーを構成してこの絵を書かれたのだと思うと、私のしていることなどたいした事はない、と自分を戒めながら取り組みました。
翻訳はそれなりに大変ですがそれよりもパソコンのトラブルで何度か士気喪失状態になりました。スキャンした絵がハードの故障で60枚ほどなくなったときには本当にがっかりしました。
▼隆太が、地面にメッセージを書いたシーンなど、難しかったのでは…?
これはたいしたことはありません。数少ないフォントの中から手書きの感じが出ればという思いだけです。5巻の初めにゲンの作文があります。これは少し手がかかりました。絵の場合トナーが多ければ濃すぎますし、薄くすれば今度は字が見えないし。
結局薄い絵に濃く印刷した吹き出しを貼り付けています。
▼ゲン達が歌う歌はどのように訳されたのですか?
歌の訳は原則的には意味の通り訳しました。私の思いでは当時そのような内容の歌が流行っていたのですから。特に10巻の「男の純情」という歌は本文にも関係してきますし…翻訳者は4人いますが「ロシアの歌のほうがよい」という人の訳は一部ですがそのままにしています。
▼ゲンが唱えるお経などもむずかしい作業だったのではないでしょうか?
4巻の最後のお経はロシア人と随分相談しました。仏教のものの哀れという感じはロシア語ではないということでした。
文化はその地に根づいての文化なのですから、翻訳するときにはその点をあきらめないと仕方ないと思います。たとえば、ヒロシマ弁がどんなに面白くても、これを外国人に伝えたいと思っても無理なことです。やはり異文化は異文化でしかないと思いますが、人間としての共通の感情、感覚を大切にしたいと思います。

▼細かい事ですが、本の開きが反対なんですね、個人的に新鮮だったのですが…。それと関係あるわかりませんが、製本の関係上か、少し編集されている部分がありますね。(一巻の浩二が、出征するシーンの父、大吉の万歳のシーンなど)

1巻・2巻・3巻はモスクワで「今日の日本」社が作りました。万歳のシーンは鏡像です。漢字はロシア人が書いています。
4巻からは私は作成したのですが当初、鏡像なのでひだりききのままでしたが、あるときパソコン上で簡単に修正できることを知り、それ以後、気づいたときだけ一部分をもとの絵に直しています。本当はすべて一コマ、一コマ直せばいいのですが大変な作業になりますので,あきらめました。